はじめに
僕がブログを始めたきっかけについてお伝えしたいと思います。
本来であればまずはじめに話すべき内容ですが、なかなか考えがまとまらずに後回しにしていました。
今ならある程度言語化できそうなので、お話させていただきます。
長い話になるので分けてお話します。
ます避けて通れないのが余命宣告です。
この経験なくして今の僕はあり得ません。
まずは余命宣告されるまでの経緯をお話したいと思います。
突然の余命宣告
少し長くなりますが、自己紹介も兼ねて余命宣告されるに至った経緯をお話させてください。
当時僕は37歳で、整形外科医として市立病院に勤務していました。
医師になって12年が経過し、自分が目標としていた域に達することができたころでした。
目標に達したことで、目標へと向かう階段を一気に駆け上がった達成感と同時に、気持ちがプツリと切れた感覚を感じていました。
登り切った場所には絶景が広がっていると思っていたに、そこに待っていたのは同じ階段が繰り返される光景でした。
終わることのない階段を一生上りつづけるのかと思うと、気が滅入ってしまいました。
このころは身体面でも疲労が蓄積していました。
医師不足のあおりを受けて、元々6人いた整形外科医が3人に減ったにも関わらず患者さんの数は増える一方。しかも12年目でありながら僕は一番下の立場なので、普段の仕事量が多いうえに、当直や深夜、休日の呼び出しも多く、疲弊しきっていました。今後増員されることはないので、何年たっても楽になることはない状況に置かれていました。
加えて一生懸命治療をした患者さんのご家族から医療過誤ではないかとクレームが入り(実際は医療過誤ではなかったのですが)、虚しさを覚え医師として働くことに疲れ果てていました。
とはいえ自分のことを信じてくれているたくさんの患者さんや、毎日運ばれてくる患者さんを見捨てることはできません。
毎日自分を奮い立たせて病院に向かい朝も夜もなく働き続けていました。
時折
「病気にでもなればこの無限に続く日々から抜け出すことができるのに」
と思うようになっていました。
この思いがすべての始まりでした。
そんな思いで働くようになって半年ほどが経過した頃から、体に異変を感じ始めました。
予兆
慢性的に疲労感はあったことに加え、風邪が1カ月たっても治らない状態が続いていました。
やがて咳が止まらなり、外来中に患者さんを診察するのにも支障が出るようになってきました。
結核などの感染症であった場合、病院全体に関わる問題となるため、呼吸器内科を受診することになりました。
数年前にも咳が止まらず呼吸器内科で検査を受けたことがあり、その際は咳喘息と診断されました。一般的な喘息は、何かしらかのアレルギー物質(ハウスダストや動物の毛など)や気温差が原因で、空気の通り道である気管が狭くなり、息が苦しくなり「ヒューヒュー」とした呼吸になります。咳喘息はヒューヒューなる代わりに咳が出ます。
治療はどちらも気管支拡張剤とステロイド剤の粉薬は吸入するのが基本となります。
僕も吸入による治療で咳喘息は治まっていました。
呼吸器内科を再度受診した結果、咳喘息が悪化したためだろうと診断され、吸入回数を増やすよう指示を受けました。
しかし良くなるどころか症状はさらに増えていきました。
進行
微熱が続くようになり、倦怠感が強く、体を引きずるようにして働いていました。
再度レントゲンを撮影して診てもらったところ、肺炎と診断され、抗生物質による治療が始まりました。
これで良くなると思いましたが、症状は進行していきました。
息苦しさのため100m以上歩くことができなくなり、通勤はもちろんのこと病院内を移動するのも休み休みになっていました。横になると咳と呼吸苦が悪化するので座って寝るような状態でした。体重は食べても食べても減り続け、10㎏ほどdownしていました。
それでも不思議と手術中はすべての症状が治まっていました。咳も不思議とピタッと止まるので驚きです。人間の気力や集中力には驚くべき力があります。
そのこともあってあまり深刻には考えていませんでした。
今思い返すと100m歩けなかったり体重が10㎏も減る状態は明らかに異常です。しかし当時は不思議と異常だとは思っていませんでした。無意識レベルで「自分は大丈夫だ」と信じ込ませようとしていたのと、徐々に進行することでの感覚の麻痺が原因だと思います。
いわゆる『ゆでガエル理論』です。
ゆでガエル理論とは、カエルを熱湯の中に入れるとすぐに飛び跳ねて逃げ出すが、水から徐々に温度を上げていくと水温の上昇を気づかず茹でられ死んでしまうという理論です。
妻からは再三ちゃんと診てもらうよう言われていましたが、肺炎と診断されて治療もしてもらっているから大丈夫だと聞き流していました。
転機
しかし妻が「このままでは死んでしまう」と感じ動き出しました。
妻は結婚するまで大学病院の呼吸器内科病棟の看護師をしていたので、「これは明らかにおかしい」と感じていたそうです。しかし頑固者の僕はいくら言われてもいうことを聞きません。¥
業を煮やしが妻は、当時僕の上司だった父に「他の病院を受診させて」とお願いしたことで、事態は動き始めました。
もともと勤務していた病院の呼吸器内科部長をつとめていた先生のクリニックを受診することになりました。
CTを撮影した結果を持参して受診するよう伝えられたので、勤務していた病院でまずCTを撮影しました。
翌日罪悪感を感じながら生まれて初めての休みをとり(有給すらとったことがなかったので)受診しました。
そこでははっきりとした診断が下されず、近くの基幹病院の呼吸器内科を紹介されました。
診断
指定された日に病院を受診すると、呼吸器内科部長の診察室に呼ばれました。
診察室に入ると開口一番言われました。
「医療従事者だからはっきり言うよ。かなり悪いね。家族誰か来てるなら呼んできて。」
廊下で待つ妻のもとへ向かい、先生が呼んでることを伝えると、すべてを悟った妻の目から涙があふれだしました。
「右の肺がほとんど腫瘍になっているうえに心臓や心臓から出る血管にまで広がっていて、肺ガン’の末期だと思います。詳しく調べるために入院のうえ検査します。ただいつ心臓や血管に腫瘍の影響で穴が開いてもおかしくありません。そうなれば即死するので覚悟しておいてください」
と伝えられました。
この時、僕がどう思ったか知りたいですよね。
信じられないことに、この時僕が思ったのは
「あ~、やっとこれで休むことができる」
でした。
それ程までに追い込まれていたんです。
受診したのがゴールデンウイーク前だったので、入院はG.W.明けとなりました。
入院検査
入院検査の主な目的は気管支鏡検査でした。
気管支鏡検査とは口からカメラを挿入し気管、気管支を除く検査です。胃カメラを食道を通して胃に入れる代わりに気管に入れる感じです。
気管支鏡で腫瘍を確認して腫瘍組織を採取し、それを顕微鏡で詳しく調べることで腫瘍の正体をはっきりさせることができます。
気管支鏡は胃カメラ以上に辛いと言われている検査です。
気管に水がちょっと入っただけでむせるのに、カメラを入れるんですから辛いですよね。
幸い僕の場合は薬で寝た状態で検査してもらえたので苦しまずに終わりました。
検査結果は驚くべきものでした。
あきらかな腫瘍が見つからなかったというのです。
腫瘍によって押されている組織を採ることはできたとのことでしたが、それでは診断が難しいので皮膚の上から腫瘍を採取することになりました。
説明を聞いていると突然胸に激痛が走り始めました。先生に伝えすぐにレントゲン検査をしたところ、腫瘍を採取する際に気胸を起こしたことが分かりました。
気胸とは肺に穴があいて空気が抜けて肺がしぼんでしまう状態です。
それほどひどい状態ではなかったので自然に治るだろうとのことでした。
落ち着いたところで皮膚からの腫瘍採取が行われました。今回は無事に腫瘍を採取できました。
すぐに顕微鏡で調べてもらい、大まかな診断は下りました。
「やっぱり悪性で間違いないようです。余命は1カ月だと思われます。今のうちに身辺整理しておくように。」
と伝えられました。
この時の心境も意外なものでした。
よくドラマや映画であるようなショックや狼狽、怒りなどの感情は出てきませんでした。
自分でも驚くぐらい冷静に受け止めることができました。
一所懸命に生きてきただけに、やり残したことや後悔はないと感じていました。
残り1カ月で何をすべきかを考え始めていました。
ところが泣き崩れる妻の姿を見てハッとしました。
自分自身に関しては後悔がなくても、家族に関してはどうだろうか。妻をこのまま未亡人にさせていいのか?6歳の長男と4歳の長女はどうする?子供たちの記憶に自分がいなくてもいいのか?
そんな思いが次々に湧いてきました。
「このまま死ぬわけにはいかないな」
と考え直しました。
直感的に自分で病気を作ったのは分かっていたので、それならば病気を治すこともできるはずだと思えました。
やれるだけのことをすべてやって、生還してやろう!
そう強く心に誓いました。
今思うと、この誓いが奇跡のドミノ倒しのひとつ目の牌だったのです。
続きはこちら
コメントを残す