余命宣告を乗り越え辿り着いた生きる意味

はじめに

僕は余命宣告という生まれ変わるチャンスをもらったおかげで、余命宣告前後で全く違う人生を歩んでいます。

前後で多くのことが変化しましたが、そのなかのひとつが生きる意味です。

余命1カ月と宣告されたにも関わらず奇跡的に生還したことで、「人は何のために生きるのか?」と自問自答を繰り返しました。

今回は僕が余命宣告を乗り越えた末に気付いた、生きる意味についてお話したいと思います。

余命宣告前の人生観

余命宣告を受けるまでは、昭和生まれの多くの日本人がそうであるように、一生懸命頑張り続けることが人生なんだと信じていました。

幼少期褒められえることなく厳しく育てられた影響や、真面目で良い子を育てる教育システムの影響で、何事にも真面目に取り組んで育ちました。

一生懸命に頑張ることが正しいと信じこんでいました。

真面目に頑張れば、親も先生も認めてくれます。

そのことで自己重要感を満たそうとしていました。

しかし他者からの評価で自己重要感は満たされることはありません。

いくら頑張っても満たされないため、「もっと頑張らなければ」とさらに自分を追い込んでいました。

頑張り続けなければ自分は無価値になってしまうと無意識レベルで感じていたんだと思います。

余命宣告前の人生に対する意味を一言でいうと

自分の限界まで頑張り続け価値ある人間になること

でした。

真面目で一生懸命こそ正しいと信じこんでしました。

不真面目で適当に生きている人をダメ人間だと思っていました。

今思えば、このような人生に対する意味づけは、自分自身の価値観によるものではありませんでした。

親や教育によって刷り込まれた人生観でした。

恥ずかしいことに、成人し社会人になっても、刷り込まれた偽りの人生観に沿って生きていました。

普通は思春期をむかえる頃に、刷り込まれた人生観と自分の人生観が違うことに気付き、反抗期を迎えます。

反抗期を経験することで自分自身の人生観が形成されます。

しかし僕は反抗期を経験しませんでした。

反抗期を許すような両親ではなかったからです。

その結果、自分の人生観を形成することなく、他人の人生観に沿って生きてしまいました。

思い返すと心の奥底ではずっと辛く苦しいと感じていました。

そんな思いには気付かないふりをして、がむしゃらに頑張り続けました。

頑張り過ぎるとガンになると言いますが、僕も頑張り過ぎた結果末期の悪性腫瘍を患い、余命1カ月と宣告されました。

頑張り過ぎるとガンになるというのは医学的にも証明されています。ストレスによってコルチゾールというストレスホルモンの分泌が増え、その結果免疫細胞の働きが低下し、体内で毎日生み出されるガン細胞を排除できなくなり、やがてガンを発症してしまいます。

余命宣告されたとき、直感的に「頑張り過ぎたからだ」と分かりました。

生き残るためには人生観を変える必要があると感じ、初めて自分の人生を疑いの目で振り返り、自問自答を繰り返しました。

まさに命がけで新しい人生観を築き上げました

新しい人生観

僕の新しい人生観はいたってシンプルなものとなりました。

新しい人生観とは

人生は楽しむためにある

です。

せっかく生まれてきたからには楽しまないと損です。

楽しむといっても好き勝手に生きるということではありません。例えば誕生日パーティーやクリスマスパーティーは楽しいものですが、毎日やればいずれ飽きてしまいます。本当の楽しいとはそんな表面的なものではなくもっと深いものです。命がけで辿り着いた答えが、そんなに浅いわけありません。

楽しいと感じるものは人によって異なります。ゲームをしているのが楽しい人もいれば、社会貢献をすることが楽しい人もいます。両者を比べた際、前者はダメで後者は素晴らしいと評価されがちです。しかし楽しいに上も下も良いも悪いもありません。

楽しいと感じられるものは、その人に与えられた個性であり才能です。

楽しいは、その人がこの世に生まれてきた意味につながる道しるべなのです。

楽しいに従って道を進めば、やがてその人にしか辿り着けない場所に到達します。

遺伝子的に相違のない一卵性双生児が同じ家庭で育ったとしても、楽しいと感じるものは異なります。つまり楽しいと感じるものに、遺伝や環境要因は無関係だということです。

そう考えると、楽しいという感情はひとりひとりに天が与えてくれた生きるためのヒント、道しるべなんだと思います

その証拠に、楽しいことをしているとパワーが溢れるようにできています。楽しいことはいくらやっても疲れません。楽しい方向に進みやすいようセッティングされているのです。

自己啓発本でよく言われる「ワクワクする選択をしよう」というのも、根本的な考えは一緒です。

しかし日本の教育システムは楽しいを忘れさせるようになっています。

本来であればひとりひとり楽しいと思うことに比重を置いた教育を行うべきです。しかしそれには大変な手間と労力が必要です。教育者側からすれば、全員に対して同じカリキュラムを一方通行で教えるのが効率的です。

また無個性で我慢強く何でも言うことを聞く良い子は管理しやすく、社会に出てからも扱いやすいです。

このような理由から、楽しむことを悪いことのように洗脳し、型にはめる教育を行っています。その結果多くの人が、自分が何が好きなのか分からなくなってしまいます。

小学校では図画工作が人気科目なのに、中学校では美術が不人気科目になるのが分かりやすい例です。

小学校までは楽しく図画工作に取り組めます。ところが中学校で美術になったとたん、正解が与えられ、正解に近付けるよう強要されます。その結果、楽しくなくなってしまいます。

僕も小学校までは絵を描くのが大好きで得意だったんですが、中学校に入ったとたん美術教師からダメ出しされまくり、絵を描くことが嫌いになってしまいました。

本来楽しいはずの読書も、国語になったとたん楽しめなくなります。作品をどのように感じるかに正解などないのに、正解を求められます。

あなたが「楽しいものが分からない」、「楽しいものなどない」と感じているならば、それは教育によって楽しいという感覚を忘れさせられたからです。

必ずあなたにも楽しく感じるものはあります。

僕も楽しいが見つからず苦労しました。

しかしリハビリしていくことで、徐々に楽しいを思い出すことができます。

楽しいを思い出すリハビリ

ノートを1冊用意します。

ノートに100個楽しいと感じることを書き出します。どんな些細なことでもいいです。

例えば好きな音楽、漫画、アニメ、本、俳優、アイドルといったものでも構いません。

雑誌などを切り抜いて貼るのもいいでしょう。

いきなり答えには辿り着きませんが、色々なピースが組み合わさることで徐々に答えが見えてきます。

はじめは表層的な俗っぽいものしか浮かんできませんが、100個書き出そとすることで徐々に深層的な楽しいに近付いていきます。

子供の時に好きだったもの、夢中になったものなどもヒントになるので書き出していきましょう。

いきなり100個が難しければ、時間をかけて書き加えていってもいいです。

楽しいことを見つけようとする意識が生まれるので、日々の生活の中で楽しみを見つけられるようになります。楽しいセンサーが敏感になります。すると人生に楽しいことが増えていきます。

次に楽しいと思うことはとりあえずやるようにしましょう。

やってみて「あれ、違ったな」ということもあると思います。それもやってみないと分からないことです。

色々やっていくうちに、自分の本当に好きなものが見えてきます。

僕の場合、嫌いになった絵を自己流で描き始めたり、真面目ぶって大人になってからは読んでいなかった漫画を読むようになったり、アニメを見るようになったり、楽器を始めたり、陶芸窯に弟子入りしたり、社会貢献活動を行うために法人を設立したりと、楽しそうと思うことはどんどんやるようにしています。

その結果、今は人生楽しくなっています。

経済的には以前の方が豊かでしたが、幸福度は今の方が高いです。

僕自身まだ道半ばなので、楽しいの先にどんな人生の意味があるのか分かりません。もしかしたら一生かけて見つけていくのかもしれません。

万が一、人生の意味が分からなかったとしても、楽しく過ごせたなら後悔はないでしょう。

僕は余命宣告後の人生を、おまけの人生だと思っています。せっかくもらったおまけなら、存分に楽しまないと損ですよね!

考えようによっては一生がおまけなのかもしれません。

あなたもせっかく生を受けたんですから、存分に楽しい人生を送りましょう!

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